俳優デビューもした土木系企業の営業担当・室田ヒストリー

あそ部活動日誌

俳優デビューもした土木系企業の営業担当・室田ヒストリー

豊開発の営業であり、あそ部のメンバーであり、去年俳優デビューした室田です。
というのも2023年にOSAKAしごとフィールドさんが制作したムービーに翔の先輩役で出演するというご縁をいただきました。施工管理の仕事や土木現場の用語についても丁寧に紹介していますので、ぜひチェックしてみてください。
-超時空異業種体験記~タイムリープ・ワーカーズ~【#4】建設業編・翔-

さて、今回の記事はそんな室田の歴史をひも解き、若かりし自分が土木業や建設業に興味を持った理由、豊開発の豊かな人たちの魅力などをお届けします。

自己紹介-生涯、建設業1本!-
私の名前は室田将成と申します。遡ること数十年前の9月に奈良県大和高田市で生を受け小学1年生までは大阪市内で、その後現在に至るまで大阪府の南側で生活を営んでおります。大学(大阪芸大)を卒業後直ぐに建設会社に就職し、建設業一本で今日まできました。余計な情報ですが、趣味は美味しい物を食べ、お酒を飲みカラオケで歌うことです!休日は愛犬と戯れる程度で、ほぼ引きこもっています(笑)自己紹介はこの辺で、そろそろ本題に入りたいと思います。

建設業との出会い-かっこいい!が自分の原体験-
建設業との初めての接点は私が中学生の時に、父が脱サラし建設会社を立ち上げた事により、建設会社の方達とお会いする機会が増え、父に連れられて現場に行く機会ができたことです。私がお会いしたのは、中小企業の社長さんや職人さんが殆どでしたが、当時の土建屋というのは、見た目は怖いけどフレンドリーな人ばかりでした。

初めて現場を訪れた時の感想は、とにかく「かっこいい!!」って思いました。
大きな建設機械が動く姿を長い時間眺めていたことを思い出します。

学生時代-実は、芸大卒-
私が本格的に建設業に興味が湧いたのは、先に述べた建設現場や土建屋の皆さんとの出会いがあったからです。とはいえ高校生のころは将来の目標や進路について特に考えていませんでした。大学に行こうと思ったのも、高校3年生の春にたまたま4歳上の先輩に誘われた?のがきっかけです。大阪芸術大学の環境計画学科を受験しようと思い、試験の必須である鉛筆デッサンの教室に通い始めました。高校の職員室で、大学受けるって言った時の先生達の反応はいまでも記憶に残っています。(その時代に流行りのヤンキーが、大学受験するって言ったら、誰でも驚きますよね…)そして、先生達の心配を大きく裏切り、無事大学に合格し大学生活がスタートしました。大学時代には、殆ど造園屋さんのバイトで、図面を書いたり完成予想図を描いたりしていました。今はパソコンでどちらも描くことが出来ますが、当時はドラフターという製図台を使って、全て手書きでした。少し土木・建築工事とは違いましたが、自分が書いた図面や完成予想図(パース)をお客さんが見るのだと思うと、最初の内は非常に緊張しましたね。

初めての現場-分からないことだらけ、だけど・・・-
大学卒業後、建設会社に就職し、初めての現場に着任した時のことは今でも良く覚えています。初めての現場は、大阪の狭山にある宅地造成の現場に現場監督(見習い)として着任しました。ベテランの先輩のやさしい?指導のもと、毎日ドロドロになって働いていましたね(汗)今同じことをするのは、体力的に厳しい!(笑)新入社員の朝は早く、誰よりも早く現場に到着し、詰め所(ハウス)の掃除から始まります。同時にお湯を沸かして、先輩社員が来た時に直ぐにコーヒーが飲めるように準備します。まるでお手伝いさん…ですが、まったく苦ではなかったですね。なぜかというと、現場には自分の好きな大型重機がたくさんあり、毎日動く姿を見ることが出来たから。そして、徐々に変わる現場の景色を見るのがとても楽しかった。当然、最初のころは素人ですから、失敗したり、専門用語がわからず指示されたことができてなくて、結構な勢いで怒られることも多かったですが、失敗こそが自身の貴重な経験となり、立派な土建屋になるために必要なことだったと今では思えますね。初めての現場については、途中で次の担当現場が決まり、最後まで見届けることが出来なかったのが残念でした。

阪神淡路大震災・震災復興工事-土木業や建設業の可能性-
私が社会人になる前に阪神淡路大震災が発生していましたが、私が神戸の復興工事に携わったのは、震災発生から2年ほどたってからだったと思います。倒壊したビルなどの解体工事はほぼ終わっていたように記憶していますが、道路の舗装(アスファルト舗装)については、至る所にクラック(ひび割れ)や隆起しているところがあり、我々若手社員が毎日スプレー片手に道路のクラックにスプレーで印をつけて、図面に状況を書き込む作業をひたすらしていました。(真夏に倒れそうになりながら…)

私が神戸に着任したころは、生コン・アスファルト等の材料が思うように納入されず、非常に苦労したことを思い出します。工事写真についても、今はデジカメ・タブレットで撮影して簡単に整理が出来ますが、当時はフィルムですので、現像するまできちんと写真が撮れているかもわからないですし、大量の写真を一枚一枚工事写真の台帳(3枚/ページ)に差し込むのに非常に手間と時間がかかりました。(差し込み忘れがあると大変でした…。)自然災害の恐ろしさを肌で感じ、それを新たな状態にする過程と、それを可能にする建設業の偉大さを実感しました。最初で最後にしたいですが、震災復興の工事での経験は自身にとって非常に貴重なものとなりました。

そして、豊開発へ-個性的なメンバーとの出会い-
阪神淡路大震災の復興工事の後、滋賀県米原市の現場に着任中、本社より至急帰阪するよう連絡がはいり、先輩社員とともに会社へ戻ったところ、倒産が告げられました。社会人2年目のころのことです。その後直ぐに建築工事の足場などを手がける工務店に再就職しましたが、こちらも半年ほど経った頃に、社長が夜逃げ…。そうこうしている時に、縁あって現在の豊開発に就職することができました。私の父と豊開発の創業者である先々代の社長(現相談役)が知り合いであったため紹介してもらい就職しました。社長をはじめ、社員の一人一人の個性も強く、それぞれの個性を把握するのに時間がかかりましたが、今となっては良い思い出です。現在の豊開発は、現代表が目指す社員一人一人の「自律・自走」に向けてトップダウンからボトムアップの体制造りに向け様々な新しいことに取組んでいます。私の今は営業職ですが、入社から8年間は施工管理(現場監督)として働いていました。現場で経験したことが、今の営業職にも役立っています。

豊開発の豊かな人たち-ベテランの立場から見守るということ-
私が豊開発に就職して24年が経ち、仲間の顔ぶれも大きく変わりました。創業当時からのメンバー(先輩社員)数名と、私と同じ中途入社の社員や、新卒で入社した社員で現在は構成されています。若い社員も増え、会社としての取組も今までとは全く異っています。あそ部という部署の発足に伴い、若い社員が増え、これまでの豊開発では考えられなかったであろう「インスタグラム・X・ドローン事業…等」といった取組が進んでおり、若い世代に建設業・豊開発の魅力を伝えられる仕組みになってきていると感じています。

本題の豊開発の社員についてですが、自身を含め昔の豊開発の体制を経験している社員は、勇輝さんが代表取締役に就任し、新しいことに取組だしたころは困惑し、適応するのに時間がかかったようです。(いまだに右往左往している場面もありますが…)そして、ぼちぼちではありますが、社内のコミュニケーションが活発になってきたように感じます。現社長の推進する、「社員の自律・自走」に一日も早く全員がベクトルを合わせることが出来れば、もっと魅力的な会社になると思いますね。

新たに仲間となった新入社員の皆さんについては、建設業を全く知らずに豊開発に就職してくれた勇者ぞろいです!それぞれ我々には無い感性やスキルも持っていて、学びも多いです。NEO豊開発を形成するうえでも重要かつ必要な方たちですね。私自身も、あそ部を通じて様々なミッションに加わることが出来て、これまでの営業活動だけでは経験できなかったことに触れる機会が出来たことは、貴重な財産を手に入れることができたと感じています。

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終わりに
長文になりましたが、何かの機会で実際にお会いすることがあれば、まだまだお伝えできていないことや裏話もありますので、その際は話しかけてくださいね。

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